2007年 01月 24日
建築家の社会性について |
定期的に更新しよう、と思ったのもつかの間、前回からもう二十日も経ってしまいました。が、気を取り直して行きます。今回は妙に長いです。
十数年前、以前に勤めていたアルセッド建築研究所に入社する際の面接で、「君は建築家の社会性というものについて、どう考えるか。」と尋ねられました。建築家の社会性、恥ずかしながらそれまであまり深く考えたことの無かった僕は、むにゃむにゃとお茶を濁した記憶があります。
それからずっと、折りに触れ、ちょっとずつ考えてきて、まだよくわからないことではありますが、今のところ以下のようなことを何となく考えています。
以前に、香山壽夫さんという建築家から、「欧米では、建築家は、人権を守る弁護士、生命を守る医師と並んで、大切な財産を任せる人間としてのプロフェッションであり、社会的地位を得ている」、と伺いました。
建築に携わる人間の言であり、自分で確認したことでもないので、本当のことかは分かりませんし、人権、生命、財産に関わるプロフェッションというのはもう少し他にもありそうな気がしますが、基本的な心構えとしては大事なことだと思います。
建築というものが、人の健康や生命に直接関わり、或いはそこに居る人々の気分にも関わり、また明確に暮らしや人間関係にも影響を及ぼす、そのようなプロフェッションとしての自覚を常に持ち続ける必要があると、確かに思います。
一方で、社会のなかで、どのようにその社会に対して応えていくか、という点については、幾つかの考え方があると思います。
最近は、家族がばらばらになってしまっているのだから、それに応えてばらばらに住める住宅を提案しよう、という考え方。対して、家族がばらばらになってしまっているのはどこかに問題があるからで、家族がなるべくばらばらにならないような住宅を提案しよう、という考え方。
最近は、建物が短い期間でどんどん立て替えられているのだから、短い寿命の建物を安く早くつくれる提案をしよう、という考え方。対して、世の中では短い寿命の建物が増えてきているけれど、本当は建物はなるべく長く立ち続けるほうがよいのだから、限られた予算、工期の中でもなるべく長寿命な建物を提案していこう、という考え方。
前者を順応的(乃至は迎合的)、後者を啓蒙的(乃至は独善的)、と呼ぶことができるかな、と思います。(他方、どちらのタイプの提案も行なわず、クライアントのいいなりに図面をつくっている、作図業務的な設計者も勿論います。)
よい暮らしやよい社会のために、よい建築とは何か、よいまちとは、よい環境とは何か、そうしたことを考える姿勢とそのために必要な基礎的な教育や知識が、既に社会の中に根づいていれば、或いはそうした施主と仕事をするときならば、順応的な仕事ぶりでよいのでしょう。より詳細に順応すべき対象としての社会を見通す視点と分析力が求められると思います。
一方でそうした背景がない場合には、なるべく独り善がりにならないように注意しつつ(順応的であることにしても自分がそう思っているだけなら独り善がりでもあるわけで、少なくともその程度の独善的な姿勢でもって)、望ましい建築や環境のあり方を指し示す提案が必要になっていくのではないかな、と思います。
望ましい建築、よい建築とは何か、そしてよい社会とは何か、それを考えることは大変難しいですけれども…。
そのためには、個々のクライアントに対して、クライアントに言われた通り、なるべく安い価格で図面をひき、建物を造ることで応えるのではなく、クライアントの満足の質を高めることで応える姿勢が必要になると思います。
玄人はだしのクライアントもいるけれど、クライアントの知らないよい材料、家づくりで大事にしなければならないこと、丈夫で長持ちな作り方、便利な設備、クライアントのライフスタイルへの気づき、思いも寄らないライフスタイルに合わせた空間構成等々。
依頼の時の期待を上回る満足、その建物がたちつづける何十年かのトータルでリーズナブル(安いだけでなく価格帯満足度)なコスト、満足できる暮らし。満足を高めることで、一人一人の住環境が向上する、それが波及して、このまち、この国の住文化が何が無しかよい方向に進んでいくこと。まさに僭越と呼ばれる気もしますが、そうした気概が必要なのでは、と思います。
住宅のみならず、公共建築においても、税金で造るのだからとにかく一番安いのがよい、ではなく、使う人たちをどれだけ満足させられるか、長持ちするか、使われ方にあった建物を造れるか、が大事だと思います。(そういうことを市民だけでなく、役所の建築課や担当課、首長に伝え納得してもらわねばなりませんが…)
もうひとつクライアントに伝えなければならないこととして、直接的に、建物を建てることによる環境や社会へのインパクトへの責任を、クライアントにとってもらうことがあると思います。
建物をつくるからには沢山の材料とエネルギーを使う、木を切る、石油を消費する、石灰石を消費する(=山を削る)…。どれもお金で買えるものですが、お金を払っても元に戻るとは限らないものがたくさんあります。
あるいはそれぞれの家が面する道路に対してどのような関係にあるかといったこと。まちなみの眺めも変わりますし、道路や廻りに影が落ちるとすると、法的に規制がないけれど、そうしたことはお金で測れないけれど、確実にまわりに影響を及ぼしているわけです。
自分のお金で自分の土地に作る自分の家ではありますが、環境のこと、御近所や道行く人々のこと、社会のこと、建築家はクライアントと一緒に考えていく必要があると思っています。
十数年前、以前に勤めていたアルセッド建築研究所に入社する際の面接で、「君は建築家の社会性というものについて、どう考えるか。」と尋ねられました。建築家の社会性、恥ずかしながらそれまであまり深く考えたことの無かった僕は、むにゃむにゃとお茶を濁した記憶があります。
それからずっと、折りに触れ、ちょっとずつ考えてきて、まだよくわからないことではありますが、今のところ以下のようなことを何となく考えています。
以前に、香山壽夫さんという建築家から、「欧米では、建築家は、人権を守る弁護士、生命を守る医師と並んで、大切な財産を任せる人間としてのプロフェッションであり、社会的地位を得ている」、と伺いました。
建築に携わる人間の言であり、自分で確認したことでもないので、本当のことかは分かりませんし、人権、生命、財産に関わるプロフェッションというのはもう少し他にもありそうな気がしますが、基本的な心構えとしては大事なことだと思います。
建築というものが、人の健康や生命に直接関わり、或いはそこに居る人々の気分にも関わり、また明確に暮らしや人間関係にも影響を及ぼす、そのようなプロフェッションとしての自覚を常に持ち続ける必要があると、確かに思います。
一方で、社会のなかで、どのようにその社会に対して応えていくか、という点については、幾つかの考え方があると思います。
最近は、家族がばらばらになってしまっているのだから、それに応えてばらばらに住める住宅を提案しよう、という考え方。対して、家族がばらばらになってしまっているのはどこかに問題があるからで、家族がなるべくばらばらにならないような住宅を提案しよう、という考え方。
最近は、建物が短い期間でどんどん立て替えられているのだから、短い寿命の建物を安く早くつくれる提案をしよう、という考え方。対して、世の中では短い寿命の建物が増えてきているけれど、本当は建物はなるべく長く立ち続けるほうがよいのだから、限られた予算、工期の中でもなるべく長寿命な建物を提案していこう、という考え方。
前者を順応的(乃至は迎合的)、後者を啓蒙的(乃至は独善的)、と呼ぶことができるかな、と思います。(他方、どちらのタイプの提案も行なわず、クライアントのいいなりに図面をつくっている、作図業務的な設計者も勿論います。)
よい暮らしやよい社会のために、よい建築とは何か、よいまちとは、よい環境とは何か、そうしたことを考える姿勢とそのために必要な基礎的な教育や知識が、既に社会の中に根づいていれば、或いはそうした施主と仕事をするときならば、順応的な仕事ぶりでよいのでしょう。より詳細に順応すべき対象としての社会を見通す視点と分析力が求められると思います。
一方でそうした背景がない場合には、なるべく独り善がりにならないように注意しつつ(順応的であることにしても自分がそう思っているだけなら独り善がりでもあるわけで、少なくともその程度の独善的な姿勢でもって)、望ましい建築や環境のあり方を指し示す提案が必要になっていくのではないかな、と思います。
望ましい建築、よい建築とは何か、そしてよい社会とは何か、それを考えることは大変難しいですけれども…。
そのためには、個々のクライアントに対して、クライアントに言われた通り、なるべく安い価格で図面をひき、建物を造ることで応えるのではなく、クライアントの満足の質を高めることで応える姿勢が必要になると思います。
玄人はだしのクライアントもいるけれど、クライアントの知らないよい材料、家づくりで大事にしなければならないこと、丈夫で長持ちな作り方、便利な設備、クライアントのライフスタイルへの気づき、思いも寄らないライフスタイルに合わせた空間構成等々。
依頼の時の期待を上回る満足、その建物がたちつづける何十年かのトータルでリーズナブル(安いだけでなく価格帯満足度)なコスト、満足できる暮らし。満足を高めることで、一人一人の住環境が向上する、それが波及して、このまち、この国の住文化が何が無しかよい方向に進んでいくこと。まさに僭越と呼ばれる気もしますが、そうした気概が必要なのでは、と思います。
住宅のみならず、公共建築においても、税金で造るのだからとにかく一番安いのがよい、ではなく、使う人たちをどれだけ満足させられるか、長持ちするか、使われ方にあった建物を造れるか、が大事だと思います。(そういうことを市民だけでなく、役所の建築課や担当課、首長に伝え納得してもらわねばなりませんが…)
もうひとつクライアントに伝えなければならないこととして、直接的に、建物を建てることによる環境や社会へのインパクトへの責任を、クライアントにとってもらうことがあると思います。
建物をつくるからには沢山の材料とエネルギーを使う、木を切る、石油を消費する、石灰石を消費する(=山を削る)…。どれもお金で買えるものですが、お金を払っても元に戻るとは限らないものがたくさんあります。
あるいはそれぞれの家が面する道路に対してどのような関係にあるかといったこと。まちなみの眺めも変わりますし、道路や廻りに影が落ちるとすると、法的に規制がないけれど、そうしたことはお金で測れないけれど、確実にまわりに影響を及ぼしているわけです。
自分のお金で自分の土地に作る自分の家ではありますが、環境のこと、御近所や道行く人々のこと、社会のこと、建築家はクライアントと一緒に考えていく必要があると思っています。
by ryo-oguchi
| 2007-01-24 12:30
| 建築のはなし