2007年 06月 25日
海野宿 |
五月の終わりに、海野宿という重要伝統的建造物群保存地区(いわゆる伝建地区)にでかけてきました。
海野宿は中山道の佐久の少し西、追分宿から分かれた北国街道の二つめの宿場町だったところで、地名は東信の豪族海野氏に由来します。海野氏が武田信玄に滅ぼされてしまった後は、城も造られませんでしたが地名だけは残り、宿場が設けられ、寛保二年に隣接する田中宿が大洪水をうけて衰退した後は、本陣も置かれるなど栄えていたそうです。
現在は、千曲川近くの旧道沿いに数百メートル、昔の町並みが整備され、残されています。簡易舗装の道路ときれいな水の流れる細い水路に面して並ぶ軒の低い町並みは、昔ながらの卯辰や二階の出格子(海野格子)、明治以降の蚕部屋づくりなどによるものですが、全体として何というかよい感じにやれている印象を持ちました。
「やれる」というのは古い車を語るときに時々用いられる言葉で、古いんだけれどもぼろではなく、よい意味で古びている、使い込まれて味わいが出ている、というような意味に使われています。
古い町並みを維持していくあるいは整備していくときに、きちんとした考証やコミュニティの熱意が揃わないと、和風ディズニーランドかただのおんぼろになってしまうこともあるようですが、海野宿はよい意味で肩の力が抜けた感じで、新しい人の手が見えにくく、古いけれどもおんぼろでない、「やれた」空気感があるように思いました。
通りに足を一歩踏み入れたとき、向こうの方から「三匹が斬る」の三匹がやってきそうな空気を感じたのです。
海野宿は中山道の佐久の少し西、追分宿から分かれた北国街道の二つめの宿場町だったところで、地名は東信の豪族海野氏に由来します。海野氏が武田信玄に滅ぼされてしまった後は、城も造られませんでしたが地名だけは残り、宿場が設けられ、寛保二年に隣接する田中宿が大洪水をうけて衰退した後は、本陣も置かれるなど栄えていたそうです。
現在は、千曲川近くの旧道沿いに数百メートル、昔の町並みが整備され、残されています。簡易舗装の道路ときれいな水の流れる細い水路に面して並ぶ軒の低い町並みは、昔ながらの卯辰や二階の出格子(海野格子)、明治以降の蚕部屋づくりなどによるものですが、全体として何というかよい感じにやれている印象を持ちました。
「やれる」というのは古い車を語るときに時々用いられる言葉で、古いんだけれどもぼろではなく、よい意味で古びている、使い込まれて味わいが出ている、というような意味に使われています。
古い町並みを維持していくあるいは整備していくときに、きちんとした考証やコミュニティの熱意が揃わないと、和風ディズニーランドかただのおんぼろになってしまうこともあるようですが、海野宿はよい意味で肩の力が抜けた感じで、新しい人の手が見えにくく、古いけれどもおんぼろでない、「やれた」空気感があるように思いました。
通りに足を一歩踏み入れたとき、向こうの方から「三匹が斬る」の三匹がやってきそうな空気を感じたのです。
by ryo-oguchi
| 2007-06-25 18:04
| まちのはなし