2006年 09月 20日
閑話休題 |
文章を書くことに不慣れなため、ブログを書く直前に個性の強い文体の文を読んでいると、知らず知らずにその文体につられてしまうことがあります。
そっくり真似られるなら、いっそお手本の文章の味わいも自家薬籠中のものと出来、それはそれでよいのですが、大体はうわっ面だけ真似た、何とも鼻持ちならない文章になってしまって、書き直す羽目になります。
そういうわけで、このブログの文章を書く際には、事前になるべくものを読まず、小学校の頃の作文のような気分で書くようにしています。
が、それでも読み返すと、読んだ本の影響か…と思われる箇所が散見されます。
井伏鱒二訳のドリトル先生を読んだ後は、句読点がやたらあちこちにあったり、雑誌の原稿を執筆していたころは、参考文献と同じく、主語述語修飾語が規則正しく連なるように、えらく説明的な文章になっていたりもします。
最近寝る前に読んでいるのは三谷幸喜氏のエッセイですが、あんな洒脱で尚且つ最後に必ずオチの来る文章を真似たりすると、大変なことになりそうです。
案外、自分で思うほど、文体の変化は明らかではないのかもしれませんが、何だかいつも落ち着かない気分です。
そっくり真似られるなら、いっそお手本の文章の味わいも自家薬籠中のものと出来、それはそれでよいのですが、大体はうわっ面だけ真似た、何とも鼻持ちならない文章になってしまって、書き直す羽目になります。
そういうわけで、このブログの文章を書く際には、事前になるべくものを読まず、小学校の頃の作文のような気分で書くようにしています。
が、それでも読み返すと、読んだ本の影響か…と思われる箇所が散見されます。
井伏鱒二訳のドリトル先生を読んだ後は、句読点がやたらあちこちにあったり、雑誌の原稿を執筆していたころは、参考文献と同じく、主語述語修飾語が規則正しく連なるように、えらく説明的な文章になっていたりもします。
最近寝る前に読んでいるのは三谷幸喜氏のエッセイですが、あんな洒脱で尚且つ最後に必ずオチの来る文章を真似たりすると、大変なことになりそうです。
案外、自分で思うほど、文体の変化は明らかではないのかもしれませんが、何だかいつも落ち着かない気分です。
by ryo-oguchi
| 2006-09-20 11:36
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